不動産を活性化する専門家

サンアーキテクツ物語

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こんにちは田口宏です。
私は現在、サンアーキテクツ株式会社(設計事務所)の代表取締役です。
一級建築士であり不動産投資家として、不動産オーナーさんの不動産活用方法の相談に乗りながら、自らもマンション等の中古物件を買い取り、関西を活性化させる貢献をしています。
買い取った中古物件のリノベーション設計をして[HACOSU]というブランドとして提供しています。
話はかわりますが、私と同じように一級建築士と宅地建物取引主任者の二つの資格を持っている人には今までにお会いしたことがありません。なぜなら、同じ土地・建物に関する資格でありながら“建てる”と“売る”という仕事は建設業と不動産業で全く業界が分かれているからです。なぜこの二つの資格をとったのかと聞かれることが多いのですが、正直に言えば、取らないといけない必要性に迫られていたからです。

建設業界での経験

私は高校卒業後、サラリーマンをしていました。
建設業界で働いていた父親からは「建設業界はいいぞ」と勧められていたのですが、当時の父親は頑固で厳しい人でした。私は反発していたのでサラリーマンの道を選びました。
しかし21歳のとき、建設業に進んでいた兄に「一緒に起業して金持ちになろう」と誘われました。私はもともと自分で起業したかったので、それまでの練習だと思って一緒にやることにしました。
自宅のガレージをつぶして掘建て小屋のような事務所を建てました。
兄は建設業をしていて現場監督にまでなっていましたが、私は経験がありません。まずは日雇いで土方をしました。
建設業界で一から起業して会社を持つまでになるにはまず現場を“土方”や“職人”として経験し、次に“現場監督”になります。そこで実績と人を使えるようになると起業し“下請け”になります。そして、会社の規模が大きくなると“元請け”といわれる億単位の依頼を受ける企業になっていく流れがあります。
一人前の現場監督になるまでに10年かかると言われています。そんなに時間はかけてはいられません。早くマスターして一人前の現場監督になってやろうという思いで働きました。休みの日や夜中に働くのも平気でした。
努力が実って半年で監督見習いにしてもらいました。
指導してもらいながら、施工図や工程表を書くようになりました。
施工図というのは、設計士が書いた図面を元にそれを具体的な工事ができるよう細かい材料やミリ単位の寸法を示したもの。そして、どのような作業をしていくかの手順を書いたものが工程表です。
私は建物の構造や工事を管理する技術を学んでいきました。

わずか1年で現場監督に

見習い監督をしてから半年後に現場所長にならないかと言われました。普通なら数年かかるところをたった1年でのスピード出世でした。
私は嬉しいよりも恐ろしいと思いました。必要な資格は取っていましたが、責任が重大です。50人から100人の人員と材料や資材を月に何千万円というお金をかけて動かす責任者なのです。窓の寸法ひとつを間違えただけで一日に何十万、何百万という損失が出てしまいます。
例えばこんなミスをしたことがあります。
ビルの建設で、コンクリートの工事がありました。ミキサー車を36台手配しましたが、流し込む型枠の工事が終わらずに6台に帰ってもらうことになりました。60万円近くの損失です。また、夏場にはコンクリートがミキサー車の中で固まってしまい、大変なことになったこともあります。
当然関係者には頭を下げて謝りましたが、今思い出しても冷や汗が出ます。
また、現場監督は責任も重大ですが、過酷な仕事です。大きな現場だと夜中2時まで仕事して朝5時に起きる。3時間睡眠は当たり前で、一週間、二週間徹夜することもありました。
3年ほど現場監督をして10棟ほど建てました。

まち一番の建設会社になろう

25歳のときに、お世話になっていた建設会社から請負を任すので兄と2人で下請けにならないかというお誘いをいただき、株式会社を設立することにしました。

本格的にはじめるために、以前から何かと相談に乗ってもらっていた父にも加わってもらうことになりました。何十年と大手の建設業で役員にまでなっていた父は本当に頼りになりました。また次男も一緒に働くことになりました。
父、長男、次男、四男の私という4人です。
日々生まれ変わって成長するという意味で「日生建設」と名付けました。
そして、「まち一番の建設会社になろう」という目標を立てました。ガレージの掘建て小屋から始め、次に小さな5、6人の賃貸事務所を借りました。
もっと儲けの大きな元請けで仕事を取れるようになることを目指しました。
私は現場から離れ営業を担当することになりました。地主さんやマンションのオーナーさんたちと話をするようになり、悩みを聞くようになったのでした。

地主さんの悩み

営業に出た私は、土地活用や賃貸マンションの運営に困っているオーナーさんと会いました。私からは土地活用の方法を提案させていただきました。介護施設やマンションを建設して収益を生み出せるようにお手伝いするのが私の仕事でした。
しかし、中には不動産を手放したいという人もいます。そういう人は残念ながらお客さんではありません。私の会社は建設会社なので、土地に建物を建てたい人しかお客さんにならなかったのです。
でも私は世話好きな性格なので「はい、さようなら」とはできず、オーナーさんと一緒に不動産屋さんを何軒も回ってあげました。すると不動産屋さんからはこんなことをいいます。
「近辺の事例から見たら、お宅の物件にはこれくらいの金額までしか出ません」
「あっちの不動産屋がそれだけ出すんなら、うちは少し色をつけますよ」
オーナーさんは不安な心理状態で自分の事情を正直に話しているのに、不動産屋さんは自分がどれだけ得になるのかという欲目でしか見ていません。思いやりのある対応は殆どなく、オーナーさんはだんだん疲れてしまいます。私は本当に気の毒に思いました。
最終的に多くのオーナーさんは面倒になって適当な金額で売ったり、嫌になって先延ばししてしまったりします。
私は付き添ってあげながら、何でもできないことに力不足を感じ、情けなく思いました。
なぜオーナーさんに「どうしたいか」「どういうふうになりたいのか」と聞いて、その実現を一緒に手伝ってあげるような不動産屋さんはいないのだろうか。
徐々に私の中で、いないなら自分がいつかそうなろうという思いが膨らんでいきました。
その頃に不動産を扱えるようになりたいと思い、宅地建物取引主任者の免許を取りました。
うになったのでした。

自社ビル

私のそのような思いとは別に、家族で作った会社はどんどん大きく成長していきました。
30歳のときには12、3人の事務所に引っ越し、ついにまち一番の会社になりました。
大きな公官庁の仕事も請け負えるようになり、33歳のときには従業員は20人。3階建ての自社ビルを建てることができました。
いい営業マンは、設計段階からオーナーの相談に乗ることが必要だと思いました。そして一級建築士の免許をとり、オーナーの思いを生かした設計を自ら行うようになりました。
それから会社は安定期に入りました。
私は年に10億以上の仕事を受注する成績を15年にわたって続ける優秀な建築士で営業マンでした。その頃の父親は、昔のような頑固さや理不尽さはすっかりなくなり、温厚でいつも「ありがとう。ありがとう」と言う人になっていました。
また「世の中で俺が一番幸せだ。こんなに素晴しい息子達を持ったから」と言ってくれました。
私も父が大好きで、尊敬する人はと聞かれたら父親と答えていました。
父はみんなの緩衝材のような役割をしてくれていました。他の兄弟の不満を言いに行くと、「あいつはこういう良いところもある」「こういうふうに頑張っているんだ」と諭してくれました。兄弟みんなが父を一番の理解者だと思っていました。
しかし2009年、父の病が発覚しました。

父の死

私は父にいつか自分で会社を経営したいという夢があることを話していました。
父は病院のベッドに兄弟を呼びました。
「ひろしが前から望んでいた会社立ち上げをみんな認めてあげなさい」と言ってくれました。
私は、亡くなる二日前に会社の名前「サンアーキテクツ」を決めて会社を設立しました。父に名前とその由来を伝えに行きました。
日生建設と一緒に繁栄する会社という意味です。
「設計事務所らしくておしゃれやろ」と父にいうと
「いい名前やね」と言ってくれました。
そんな偉大な父の最期は、まさに笑顔のままでの永眠でした。

経済的、精神的に豊かな人生を送りたい方へ

最近、「どうやったら田口さんのようになれますか」と聞かれることが多いので、書いておきます。
私は経済的にも、精神的にも豊かな人生を送ることができるようになりました。
不動産とメンタルの2つを学んだおかげです。
どちらが欠けても今のようにはなっていないでしょう。
不動産だけでは、経済的にはなんとかなっても不安だらけで孤独な人生でした。
メンタルだけでは、仲間がいて幸せは感じられても経済的に安定しない人生でした。
豊かな人生を送るためには両方とも大切です。

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